向井秀徳(ZAZEN BOYS)やASIAN KUNG-FU GENERATIONなどの作品で知られるプロデューサー/エンジニアの山根アツシ氏は、アナログ・レコードのカッティングも手がける数少ない“音の職人”です。ホームグラウンドである『Altophonic Studio』には、厳選されたレコーディング機材やヴィンテージの電子楽器とともに、希少なカッティング・マシンが複数台鎮座しています。
「ぼくは2019年までドイツのベルリンを拠点にしていたのですが、そのときにカッティングの技術を習得しました。もともとヴァイナルの音は好きでしたけど、日本にいたときはそこまでレコード・マニアという感じではなかったんですよ。でもベルリンでレコード・ショップに行ってみると、テクノやヒップホップといったクラブ系の音楽だけでなく、チャートを賑わせているポップスも全部ヴァイナルでリリースされていたんです。そんな状況を目の当たりにして、今後パッケージに関してはヴァイナルになっていくと思い、自分の新しい武器としてカッティングを習得した感じですね。
カッティングを始めてすぐに感じたのは、CDや配信向けのマスタリングとはまったく別物であるということ。限られた帯域に音を入れ込んでいくという技術面もそうですが、表現そのものがマスタリングとは違うんです。たとえば、ヴァイナルにパツパツのレベルで入れても、聴いていてつまらないサウンドになってしまうんですよ。ダイナミクスや奥行きのことを考えて音を入れ込んでいかなければならない。だからぼくは、カッティング作業ではほとんどリミッターは使用せず、EQだけで求めるサウンドを表現するようにしています」(山根氏)
スタジオ後方に設置されたカッティング・マシンとテープ・レコーダー
そんな山根氏がここ最近取り組んでいるのが、“音楽のイマーシブ・ミックス”です。『Altophonic Studio』には、IK Multimediaのモニター・スピーカー iLoudシリーズが7.1.4chの構成で設置され、Mac miniベースのHT-RMUも用意。既に多くの楽曲をDolby Atmos®フォーマットでミックスしたとのことです。
「ベルリンから帰国した2019年くらいから、入交さん(WOWOWの入交英雄氏)が主宰しているワークショップに参加するようになり、イマーシブ・オーディオにとても可能性を感じるようになったんです。1970年代から1980年代前半くらいまでの音楽は、24トラックという限られたトラック数の中で成立していたわけですが、最近の音楽はトラック数が数百トラックになり、ボーカルだけでなく多くの楽器がレイヤーになっている。そういうパートごとに厚みのある作りになると、昔の音楽のようにコーラス・ワークを聴かせるのが難しいんですよ。でもイマーシブ・オーディオならば、無理に2つのスピーカーに収める必要がないので、膨大なトラック数の楽曲でも、自由な発想で音づくりができるんです。1本のスピーカーが歪み始めるまでのキャパシティも広がるわけですしね。そのことに気づいてから、音楽のイマーシブ・ミックスに凄く可能性を感じるようになったんです。要はエンジニアというより、アレンジャー的な視点で可能性を感じるようになったというか。イマーシブ・オーディオは、エンジニアだけではなく、音楽を作るクリエイターが主体になれるフォーマットだと思っています」(山根氏)
7.1.4chのモニター・システムを設置
Pro Tools用のディスプレイとDolby Atmos Renderer用のディスプレイ
もちろん作業の中心になるのは、Pro Tools | HDXシステムです。Macは最新のMac Studioで、オーディオ・インターフェースはPro Tools | MTRX Studioという構成。Pro Tools | MTRX StudioにはThunderbolt 3 Option Moduleが装着され、HT-RMUのオーディオ入出力も担っています。
「Pro Tools | MTRX Studioは本当に秀逸な機材で、やりたいことがすべてできてしまうオーディオ・インターフェースですね。安価なのにSPQ機能も統合されていて、スタジオのモニター用DAとして音質面も問題ありません。それと重宝しているのがiPad用コントロール・アプリのAvid Controlで、ミックス時はDADmanで組んだパッチを切り替えながら作業しています。7.1.4chで作業しているときも、フロントLCRだけ聴いたり、あるいはサイドだけ聴いたり……。もちろん、スピーカーとPro Tools | MTRX Studioはダイレクトに接続しています。
プラグインに関しては、イマーシブ・ミックスで使用するものは限られていて、FabFilterやMcDSPといった定番のものを使うことが多いですね。パンニング系で活躍しているのはSound Particlesのプラグインで、リバーブはLiquidSonics Cinematic Roomsや最近バージョンが上がったAudio Ease Altiverbといったところを愛用しています」(山根氏)
オーディオ入出力を担うPro Tools | MTRX Studio
特注のデスクに収納されたAvid Dockと2台のAvid S1
Pro Toolsとさまざまな機材を駆使して、“イマーシブ・コンテンツのミックス”と“アナログ・レコードのカッティング”という両極端な工程を、同じ空間でこなす山根氏。今後はボトム・スピーカーを追加して、360 Reality Audioにもチャレンジしていきたいと語ります。
「イマーシブ・オーディオというと、聴き手を包み込むような音響をイメージする方が多いかもしれませんが、ぼくは“リミッターがかからない音響”として捉えているんです。よりライブに近いダイナミクス感になるので、単純に聴いていて楽しい。これからの時代の音楽は、配信ならばイマーシブ・オーディオ、パッケージならばヴァイナルで提供されると思っているので、一見すると両極端なこの2つの作業を手がけるようになったのは、ぼくにとっては必然的なことなんですよ」(山根氏)
Dolby Atmosは、Dolby Laboratoriesの登録商標です。
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